有松

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 有松は、慶長13年(1608年)尾張藩によってあらたに作られた茶屋集落です。これよりさき慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦以降は、天下の政権が徳川氏の手に帰し、江戸が幕府の所在地ととなりました。これにともなって、徳川幕府は江戸と各地を結ぶ交通整備のため、「伝馬制度」が慶長6年(1601年)新たに定められました。
 東海道では鳴海宿と池鯉鮒宿など53宿が設けられ、あらたな東海道が生まれました。尾張藩は、藩内の宿場の制度を整えて、東海道の修築につとめていましたが、鳴海宿以東一帯は丘陵の起伏している間に松林が生い茂り、人家も耕地もなく、街道はきわめてさびしい状態でした。ときどき盗賊の類が出没し、旅人に危害を加えることさえありました。そこで、この附近に新しく部落を設ける必要を感じ、慶長13年(1608年)12月、一種の特典を与えて移住を奨励することになったのです。このときの布告は知多郡全体に発せられたものと思われますが、現在有松町につぎのような写しが伝存しています。

                  有松      
   以  上

   知多郡之内桶はさま村新町之儀、諸役令免許候間、望之者有之においては、彼地へ可被越者也、仍如件
            慶長拾三年 申二月十八日     寺西藤左衛門手判  原田 右衛門手判                                       おけはざまにて
                                       伝右衛門  
                                       作十郎
   すなわち、桶狭間新町では、諸役を免除するから、希望者は移住して来るようにとの趣旨である。

 この布達に応じて、慶長13年中に移住してきたひとびとは、長五郎・九左衛門・九兵衛・勘次・弥七・庄九郎・新助・治郎作の八名でした。出身地は知多郡の阿久比庄といわれています。
こうして、有松は桶狭間村の一支郷として誕生することになったのです。
 なお、有松という名称は、松が生い茂っているところにできた村だからという説と、「新町」(あらまち)が転じて「有松」と呼ばれるようになったとの説があります。

有松

   以  上

   知多郡之内桶はさま村新町之儀、諸役令免許候間、望之者有之においては、彼地へ可被越者也、仍如件
            慶長拾三年 申二月十八日     寺西藤左衛門手判  原田 右衛門手判                                       おけはざまにて
                                       伝右衛門  
                                       作十郎

有松

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 阿久比庄から移住した庄九郎が絞り染めをつくり始めたきっかけは、慶長15年(1610年)名古屋築城のときです。九州豊後国の諸大名が築城工事の手伝いに来ていましたが、豊後のひとたちのなかに絞り染めをもつ者がいました。これを珍しく思って注目した庄九郎が、製法のヒントを得て、その後有松でつくり始めたとのことです。その真偽はともかく、有松の地に移住して来た人たちは、なんらかの副業を営む必要に迫られていました。桶狭間の北端に設けられたこの新村は、松林の生い茂る丘に囲まれて、開発の可能な土地がきわめて少なく、農業ばかりではとうてい生活を維持できない状態であったからです。
 有松で最初につくられた絞りは、蜘蛛(くも)絞りといわれるものです。布地をその一部分づつつまんで糸で括り、全幅を絞ったのち、これを幾度も藍がめに投入し染めつけ、乾燥して絞り糸を抜けば、蜘蛛の巣の形をした絞り模様ができます。これが有松絞り製作の起源となったものです。当初は手拭としてつくられ、屋外の竹竿に三筋五筋をつるし、街道通行の旅人に売っている程度でした。
 有松絞りが世に知られるようになったのは、寛永18年(1641年)徳川光友(尾州二代藩主)が、世継としてはじめて尾張に入国したとき、光友の有松村通過に当たり、村人が入国祝いに鍛絞りの手綱を献上しましたが、これで「有松絞り」の名が天下に知らされました。こうして、蜘蛛絞りの手拭、鍛絞りの手綱が製作され、後年の有松絞の名声を博する基礎がしだいにかたちづくられていったのです。その後、三浦絞り、大名絞り、杢目絞り、蜘蛛段絞り等の発明があり、絞り染めはいっそう発展したのです。

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有松

 絞りによって発展してきた村も天明4年(1784年)大火が起って、全村のほとんどを焼失し、創設以来茅葺の町屋は一朝にして灰燼に帰しました。この大火は併せて絞り染め遺物、古文書を初め、旧い形態を残す工房、蔵などの貴重な資料を一掃しました。元来有松における絞業形態は、手工業からマニュファクチュア(工場制手工業)に移行する過渡的な段階を採っていたと見られるだけに、天明の大火は大いに惜しまれますが、この時も藩の手がさしのべられ、絞問屋は20戸以上は許さないなど保護策が採られ、ほとんど無制限の商業権が与えられたのです。かくて20年後の享和の頃(1800年初)には、町もほとんど復興し、その製品も絹染めの如き元禄年間に優る美事な製品を販出するようになっています。
 この天明大火による復興に当たっては、従来の茅葺を瓦葺に改め、構造も塗ごめ造りとし「うだつ」を設け、防火的にする等の用意周到さを見せ、ここに江戸の町屋に比肩される町並みを造り出し、さらに一層の繁栄を示したのでした。
 その建屋の多くが現在も残っており、有松の町並みの美しさを表現しています。

有松

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