当住宅は、茶室の付く主屋、表倉、南倉などからなり、重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめており、改造も少なく、建築的にも優れ、歴史的にもまた町並み景観の上からも貴重な建物です。
主屋は、木造切妻造二階建、桟瓦葺、平入り、外壁および軒裏は塗籠漆喰塗で、一階は格子窓、隣家との境に「うだつ」が設けられています。
主屋に付く茶室は、大高の長寿寺山に在住した茶人下村西行庵(1833~1916)の好みで、明治中期に建てられたものとされています。
小塚家が有松に移住した年代は、寛文年間(1661~1673)といわれ、屋号を山形屋として明治期まで絞り問屋を営んでいました。それ以後は専用住宅として使用され現在に至っています。
建築年:文久2年頃(1862頃)
名古屋市指定有形文化財(1992年)
参考文献:「名古屋市文化財報告書」他
現在の使用:住居 場所はこちら(位置就在這裡)
当住宅は、江戸時代末期の建築で、当時は丸屋丈助の店として、小田切春江の錦絵にも描かれています。
敷地は奥行が深く、主屋は木造切妻造二階建、桟瓦葺、土庇付の建物で、二階窓は優美な縦格子、塗篭漆喰塗になっています。お勝手の釜場の壁は、防火上の配慮から柱を巻き込んで塗りこめられた土壁が、独特の波形を描いています。
主屋の裏の敷地に、座敷、作業場、東倉、西倉が立ち並んでいます。有松の幕末における典型的な町屋形態を示しています。
建築年:江戸時代末期
名古屋市指定有形文化財(1987年)
参考文献:「名古屋市文化財報告書」他
現在の使用:住居 場所はこちら(位置就在這裡)
竹田家は、有松絞の開祖竹田庄九郎の後裔で300年以上の伝統を持ち、有松における代表的家系の一つです。
江戸末期における屋敷全体は、小田切春江によって描かれた俯瞰図でもうかがい知ることができ、正面外観の様子は、同じく春江の筆「尾張名所図絵巻之六」でも知られます。俯瞰図の右上に描かれている「申々居」は、春江院(緑区大高町)に移築され現存しており、棟の鬼瓦には、家紋の菱印が認められます。
主屋は、木造切妻造二階建、桟瓦葺、平入りですが、明治から大正にかけて屋根を上げ、しっかりした2階形式にし、表側に下屋(庇)を付設し土庇にしたり、出格子窓を造り、併せて、「申々居」移築あとの敷地に新たに書院が建造され、主屋と書院との間の間取りも大幅に改築されています。また、屋敷内の南方に、築200年以上とされる茶室「裁松庵」があります。
同家の造りは、絞問屋としてはもとより、接客用としての性格も強く、右側の門や玄関、書院、茶室などはこれらを具体的に示すものです。外観の偉容は、全盛時代の有松の豪華さを誇った代表的な建築の面影を偲ぶことが出来ます。
建築年:江戸期(主屋)
名古屋市指定有形文化財(1995年)
参考文献:「有松町並み調査報告書」
現在の使用:絞り商 場所はこちら(位置就在這裡)
中濵家住宅は、有松東海道に面して建つ町屋で、主屋を中心に西側に土蔵、東側に塀・物置と、有松の大規模な絞り問屋に見られる典型的な屋敷構えとなっています。建築面積240㎡、木造、厨子(ツシ)2階建、切妻造桟瓦葺、平入りの商家で、1階は正面全体を木格子で統一し、江戸期の蔀戸を採用せず、雨戸を入れたり出格子を採用し、内部には、入口から裏口までの片土間式を採用しています。2階は、軒を出桁造とし、虫籠窓を並べ、黒漆喰で塗籠めています。
屋敷を囲む塀および石垣は、西側の塀は腰を杉皮張りとし、東側は人の頭の大きさの玉石を積んだ擁壁が連続し、北側手越川面は切石を積み上げた精密な亀甲積みの擁壁となっています。明治時代に遡る遺構と考えられ、これら敷地境界の石垣も手越川沿いの歴史的景観を形成する貴重な工作物となっています。塀に沿った山与遊歩道から塀、石垣が観察できます。
建築年:明治中期頃
国登録有形文化財(2008年)
参考文献:「文化財ナビ愛知」
現在の使用:絞り商 場所はこちら(位置就在這裡)
服部豊家は、寛政2年(1790)向かいにある大井桁屋から分家し、創業した絞問屋で、屋号を井桁屋といいます。屋敷地は、有松東海道に面し広い間口を有し、中央部に2階建の主屋を配し、井戸屋形、土蔵、門など併せて11棟が県指定文化財となっています。有松の有力な絞問屋の屋敷構の典型として価値のある遺構となっています。
主屋は、切妻造り、2階建、桟瓦葺、1階には格子をはめ、2階は黒漆喰の塗籠造りで屋根両妻にうだつを上げています。
主屋の西は、往還沿いに塀を構え、門を入ると座敷が建っています。明治30年(1877)頃、久田流の師匠であった西行庵の指導のもと建造されたもので、欄間や床の間などに趣向を凝らす端正な数寄屋風書院です。
敷地背面には、米蔵、味噌蔵、女中部屋、長屋門、裏座敷、藍蔵等が連続して建っています。これらの土蔵は、白漆喰の塗籠造りで、中庭側の腰は海鼠壁、外側は下見板張としています。藍倉、米蔵は、敷地段差を利用した三階建てとなっていて、開口部に格子を入れた北側の外観は城郭の櫓を思わせます。
主屋背面には、二階建ての宝蔵倉が建ち、宝蔵倉は他の蔵より一段棟が高い土蔵で主屋と同じ黒漆喰仕上げです。
有松の有力な絞り問屋の屋敷構えを建築的に特徴づけるものは、間口の大きな敷地の中に、絞りの原材料製品のための蔵、接客用の座敷などが立ち並ぶ構成といえますが、服部豊家はその典型といえ、よく保存された屋敷構え全体が価値あるものです。
建築年:文久元年(1861年)
愛知県指定有形文化財(1964年)
参考文献:「文化財ナビ愛知」
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服部良也家は、服部家(井桁屋)から明治時代に東隣に分家した家柄です。この主屋の西側に建つ土蔵は、分家に際して服部家(井桁屋)から服部家(井桁一)に譲られたもので、県指定の文化財となっています。
倉は、二階建、切妻造、桟瓦葺で、建造は江戸末期と見られています。妻を東海道側に向けて立ち、1階・2階の各1ヶ所に窓を開いています。切石の土台の上に建ち、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とする外観は、西隣の服部孫兵衛家の表倉と一連のものとして調和しており、東海道沿いの景観要素として貴重です。
主屋建築年:明治28年(1895年)
倉建築年:江戸末期
愛知県指定重要文化財(1987年)
参考文献:「文化財ナビ愛知」
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棚橋家住宅は、間口の広い大店(おおだな)が続き重厚な町並みを形成する有松において、その由来にふさわしい規模と構成を今日に伝える遺構であり、町並みを形成する重要な景観要素となっています。
建物は、有松を代表する絞り問屋服部家住宅の遺構であり、分家した服部孫兵衛家が「井桁屋」の屋号としたので、本家は「大井桁屋」と呼ばれています。
大井桁屋服部家と棚橋家との関係は、昭和7年(1932)、名古屋医科大学の医局から派遣された棚橋龍三氏が有松で開業することになり、空家となっていた大井桁屋服部家の建物で開業したことに始まります。昭和25年(1950)、棚橋家は服部家から屋敷地を購入、龍三氏逝去後の昭和63年(1988)に医院は有松駅北へ移転したが、建物は旧状を維持しています。
主屋は、有松東海道に北面して建ち、ツシ2階建、桟瓦葺、平入の町屋です。前面2階は塗籠で、格子窓と壁を交互に配する構成で、1階は東半分を土庇としています。また、側面妻壁
は塗籠としています。
建物前面のセミ廻りの内部は、医院時代、また以後の住宅としての改変があり、診療室としえ使用するために天井は大引きを撤去して高く張り直していますが、地下には旧状を残しています。2階はツシ2階の形状で、物置となっています。小屋組みは和小屋で、全面の梁は登梁状に湾曲した材を架けています。(「木造ツシ2階建」のツシとは、「厨子」と書き、天井の低い屋根裏部屋のことを表します)
建築年:明治8年(1875年)
国登録有形文化財(2009年)
参考文献:「文化財ナビ愛知」
現在の使用:住居 場所はこちら(位置就在這裡)
<参考文献>
「名古屋市文化財報告書 文化財叢書第93号」
「有松町並み調査報告」
(1975年 名古屋市教育委員会)
「名古屋市歴史的風致維持向上計画」第2章の4
「文化財ナビ愛知」